木製の道具箱

バーボンでいい具合に酔ったせいか、恐怖は微塵も感じない。

 

「今ここで死のうが、明日別のところで死のうが、同じじゃないの」

 

グラスの中で氷がカラン、カランと鳴る。

 

それも地震のせいか、あるいは手が震えていたせいなのかはわからない。

 

今日子は、そのときの自分の姿を、第三者が見ていたかのように頭の中に投影した。

 

あの地震で、このアトリエもずいぶん揺れたのだろう。

 

しかし、あの暗い地下室のような場所でも、自分は動じなかった。

 

今の自分なら、瓦礫の下に埋もれて一人死ぬようなことがあっても本望だ。

 

いや、そこまでいうと、嘘になる。

 

正直言えば、死ぬのなら好きな男の腕に抱かれて死にたい。

 

ただあの場には、我が身を委ねるに足る男はいなかっただけだ。

 

あのあと、明け方まで飲み騒ぎ、和食を出してくれる店に移って食事をしてから帰宅した。

 

シャワーを浴びてからアトリエに入った今日子は、ざわざわと躯が騒ぐのを感じた。

 

椅子に座って絵筆をとると、それを秘部に差し込みたい衝動に駆られる。

 

むくむくと頭をもたげる肉欲を画布に昇華させようと、今日子は制作に励んだ。

 

「あの、今日子様」

 

「はい」

 

今日子は、カンバスに向かったまま、返事をした。

 

平静を装っていた。

 

「お車寄せに、遠見様のお車が着きました」

 

「お見えになったら、ここにお通しして」

 

「はい」

 

ドアは閉じられた。

 

今日子は急いで付け加えた。

 

「飲み物の用意はいりません。

 

下がって、お客様が帰った後の戸締まりだけ、きちんとして」

 

「はい」

 

ドアの向こうで返事があった後は、静寂が戻った。

 

しかし、今日子の胸はファンファーレのように高鳴った。

 

とうとう来た。

 

絵筆やパレットを傍らの小卓に置くと、丸めてある帆布の上を飛び越した。

 

壁際に置いてある大きな木製の道具箱からイタリア製のガスマスクを取り出す。

 

すっぽりかぶると、たちまち鼻腔内に強烈なゴムの臭気が充満する。

 

軽い窒息感があり、意識して呼吸を深くしなければならない。

 

今日子は、肩のところにあるワンピースのボタンを外した。

 

準備はすっかり整ったのに、待ち人の訪れはまだない。

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